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被虐で得るもの

2008/03/28(金) 15:06:09
初めてお仕置きを受けた日…。

彼と別れて帰途についたわたしの携帯に、彼からのメールが届いた。

  お前の泣き顔は、凄く可愛かった。
  俺の大事な乳首を傷付けたのは残念だったが、
  血を舐め取るのは、愉しかった。


彼は、血を見るのは嫌だと以前言っていた。
けれども今回、愉しいと感じたのなら、今後は、血を見る事を躊躇しなくなるかも知れない。
そしてそれは、彼の責めのバリエーションに、影響するかも知れない。
そんなことを、考えた。


わたしは、痛みに対して我慢強い。
決して痛みを感じぬ訳ではない。
感じてはいるのだが、それを痛みと認識し、表現したり回避したりすることが不得手だ、とでも言えばよいのだろうか。

例えば、わたしは手に故障を抱えている。
PCを使う仕事をしている為、忙しくなると手が酷使され、痛み始める。
しかし仕事中は、その痛みを意識から追い出してしまえるのだ。
全然動かせなくなってしまうまで。

かかり付けの接骨院では、
『痛みというのは、
 身体からの限界だというメッセージなのだから、
 痛みを感じたら安静にして、すぐに来なさい。』
と、口を酸っぱくして言われている。
一応普通の社会人の仮面を被って生活している以上、仕事に差し障りが出ない様に、注意はしているつもりなのだが…。

こんなわたしが、彼の責めを受けている間、身体のダメージを正しく認識しなかったら、一体どんなことになってしまうのか…。

そこまで考えて、気付く。
痛みを堪える事に慣れてしまっているわたしが、彼のお仕置きでは、理性を失って子どもの様に泣き叫んでしまった…。
これは、それ程の痛みを与えられたという事であり、それを表現する事を躊躇わなかったという事だ。
そしてその後の、今まで経験したことのないような安心感と解放感…。

自分の感情を遮断する癖を持ち、痛みや苦しみを意識の外に追い出して認識しない様にし、周囲から『男っぽい』『明るくて豪快』などと言われながら、生きているわたし。
けれども、それでは精神の均衡を保てなくて…。
自分の中に沈殿しているものを、激流で一掃してしまいたくて…。
だからわたしは、責められることを求めてやまないのだろう。
それも、わたしに感情をぶつけてくる人ではなく、わたしを大事に扱ってくれる人の手によって。
感情表現の延長として虐げられるのは、嫌というほど経験していて、もう勘弁して欲しいから…。


そしてわたしは、自分の身体の限界を、正しく認識できるようにならねばならない。
彼が、少しでも長く、快適にわたしを使える様に。
わたしに、決定的なダメージを与えさせてしまわぬ様に。
無論彼は、わたしを完全に壊さぬ様、気をつけてはいるだろうけれども、彼にばかり、自制心との熾烈な闘いを強いる訳にはいかない。
彼とて、今まで抑圧してきた加虐の欲望を、心置きなく、存分に発散したい筈なのだから…。