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連休中の一泊ツーリングで彼は、以前
タイヤがパンクした町を再び訪れている。
その理由を、こう説明してくれた。
あの旅は、俺の中で完結していない。
あの時走る予定だった道を、
修理したバイクで走って帰る。
そこで初めて、俺はあの旅を
完結させる事が出来るんだ。
あの時バイクを預かってくれた
ガソリンスタンドにも、
改めて礼を言いたかったしな。そして、一泊ツーリングを終えてラーメンを食べている時、彼は呟いていた。
…うん。
これで完璧…。もしもわたしが彼の立場だったなら…。
ガソリンスタンドへのお礼は電話などで済ませ、何故、タイヤを完全に駄目にしてしまうまで異変に気付かなかったのだろう…とか、何故、あんな落石だらけの道に行ってしまったのだろう…などと後悔し続け、悲しい思い出として心に刻んでしまったことだろう。
せっかく途中まで楽しかったのに、自分の所為で台無しになってしまった…と思い、まだ完結していないなどとは、きっと考えもしないに違いない。
そして…気が付いた。
あの時、何故わたしが、自分の乗っていないバイクのパンクを、自分の所為かも知れないなどと考えたのか。
わたしが彼の立場なら、後ろに気を取られていたから落石を見落としたと考えるかも知れないから、そんな処に思いが至り、自責の念を感じたのではないか。
ガソリンスタンドで、彼のバイクをわたしの車に積むなど、どう考えても無理と半ば判っていながら、シートを動かしたりしていたのは何故か。
彼の傍で、彼のする事を見守ることしか出来ないのが、とても気詰まりだったからだ。
彼に、『こいつ、他人事だと思って、退屈そうにぼーっとしやがって』と思われるのが、嫌だったのだ。
これも…わたしが彼の立場なら、傍で見ている人に八つ当たりしたくなるから、思いが至ったのではないか。
自分の力の及ばない処にまで自責の念を覚えるのは…その裏の感情から、目を逸らしていたからだ、と言えるかも知れない。
つまり、完璧に出来なかったのは、それの所為と考えることだ。
他の何かの所為にして、責任転嫁したいという本音…。
けれど転嫁された側は、それをどれだけ腹立たしく理不尽に感じるかを知っているし、転嫁することを卑怯だとも考えているから…。
だから、自分の中に生じたそういう気持ちを、『わたしの責任なのだ』という形にすり替えているのだ。
自分の力が及ばない処まで
コントロールしようとするのは、
ただのエゴだ。彼の言葉を、思い返す。
そう…これは、紛れも無くエゴだ。
わたしの自己嫌悪と自己否定は、エゴをエゴと自覚しない為の…ある意味、自己防衛とも現実逃避とも言えるものだった。
本当のわたしは、凄まじいエゴイストなのだ。
自分の精神を崩壊させてしまう程の…。
今までのわたしなら、こんな事に今頃気付くなんて…と、嘆き悲しむところだ。
自分がエゴイストだったなんて…という処も、悲嘆の対象になるだろう。
けれども、今は違う。
今のわたしは、こういう風に考える。
これに気付けたのは…わたしが、現在の精神状態になったからだ、と。
つまり…彼。
彼が居てくれてこそ…。